Don't Forget! 阪神淡路大震災

 あの阪神淡路大震災は、私が当時中学一年生の時に襲ってきました。そして私は西宮市内の自宅で被災したわけです。それから2年後、先生や生徒一人ひとりの体験や思いをつづった手記「たちあがれ48回生」が、生徒らの手によって発行されました。
 阪神淡路大震災を風化させず、当時の体験を語り継げるよう「たちあがれ48回生」の自らのページより一部抜粋し、震災の資料等とともに、掲載することにいたしました。


1995年1月17日

 1995年1月14日(土)は第二土曜で学校は休み、1月15日は成人の日で休み。1月16日は成人の日の代休で休み。そして地震は、この3連休の直後に私たちを襲ったのです。学校ではちょうど1月17日提出の「歴史新聞」を作る宿題がありました。僕は16日深夜(17日早朝)まで必死に新聞作りに取り組んでいたのです。
 地震のあった17日の朝は、トイレに行きたくなり地震の少し前に目が覚めました。しかし夜更かししていたこともあり、面倒くさかったのでトイレには行かずまたすぐ寝ました。
 そしてまた夢を見始めたころにドンドンとマンションが大きく揺れたのです。しかしその時は、いったい何が起きているのか僕には分からず、しばらくたった後にこれが夢ではなく、現実の世界で起こった地震であることに気がついたのです。しかしその時には父は、弟の頭のすぐ上にある和ダンスを、倒れてこないように必死で支えていました。
 地震もおさまり、家の中を見るとどの部屋もタンスが倒れたり、食器棚が倒れたり、机が倒れたりして家の中はぐちゃぐちゃになっていました。しかしそんな中でもピアノに倒れ掛かったタンスは、ピアノの椅子に支えられ、ピアノに大きな被害はなく、パソコンの方もラックにキャスターが就いていた為、倒れて壊れずにすみました。リビングで飼っていた金魚の方は、地震で水槽がひっくり返り、じゅうたんの上を泳がされていたのですが、しばらくして金魚たちは全員父により無事救出され、水槽に戻された。今は、当時の金魚は寿命により?全滅してしまった。

ライフライン

 地震の後、電気・ガス・水道は、すべてストップしたのですが、電気は2〜3時間後に復旧しました。水は、マンションには供給されてはいなかったものの、貯水槽にたまっていた分の水は使えることになり、各戸に供給されたので、2,3日は水にさほど苦労しませんでした。またマンションの貯水槽の水が尽きてしまっても、地震前夜のお風呂の残り湯がまだ残っていた上、電気温水器の中の水も結構ありました。さらに運の良いことに、浄水場が家から200メートル程のところにあり、他の人に比べて水には苦労しませんでした。しかしふだん当たり前に使ってきた、水道、ガスが突然止まると、やはり慣れるまでがかなり大変でした。これが僕が本気で水の節約を考えた最初の時だったように思います。
 家の近くではビルが倒壊したり、給水所から離れていた為に水の確保に困っていたり、住む場所や身内を無くしたりと大変だったようです。家の方は、家族全員が協力して、地震から5日後にはある程度片づきました。

最後に

 たしかにこの地震で物理的なものや尊い命は、数多く失われたわけですが、私たちはお互い助け合ったり、物を分け合ったり、ボランティアと、いろいろ勉強させられました。この助け合いは、これからの僕の人生でどれだけ生かしていけるかはっきりとは分かりませんが、少なくともこれらの教訓を風化させてしまわないよう、地震の大変さや、苦労などと共に、いつまでも心にとどめておきたいです。


この体験記の一部が中学校の副教材(技術家庭ハンドノート・技術家庭ノート/正進社)に掲載されました。


ページトップへ

資料


平成7年兵庫県南部地震(阪神淡路大震災)の概要

 平成7年1月17日未明に阪神・淡路地域を襲った「兵庫県南部地震」は、日本で初めての近代的な大都市における直下型地震であり、大きな破壊力をもって、未曾有の被害をもたらした。
(1) 発生日時 平成7年1月17日午前5時46分
(2) 震源 淡路島(北緯34゜36' 東経135゜03')
(3) 震源深さ 約14km
(4) 規模 マグニチュード 7.2
(5) 震度 震度6(一部地域で震度7)
(6) 特徴 横揺れと縦揺れが同時に発生



ページトップへ


Copyright (C) Mineto Kawase All Rights Reserved.